年   表

南高の礎横川楳子

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平 照子 (昭和32年卒)

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 創設者・横川楳子女史について

 

 校門を入ると誰でも目にしたことのある横川楳子女史の胸像。この府立第四高女─都立南多摩高校の前身、私立八王子女学校の創設者である横川女史の軌跡を、改めて紹介したい。 

 

 楳子は、嘉永6年(1853)1月、武州多摩郡横川村(現八王子市横川町)の名主、横川十右衛門の長女として誕生。父の影響で早くから学問を志し、文久元年(1861)から明治11年(1878)まで、主として個人的な師について多岐にわたる学業を修めた。

 

 明治11年楳子25歳の時、東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園に保母見習いとして勤務しながら、保育法を修了。のち同幼稚園の教員に任ぜられ、明治16年(1883)には、東京女子師範学校の御用掛り・舎監などに就任するが、翌年父の死去に伴う家督相続のため、退職して帰郷する。 明治41年(1908)、東京府立第四高等女学校設立に際し、楳子は率先して八王子女学校の施設すべてを東京府に寄付すると共に、在校生を同校に移籍、15年4ヶ月の歴史を閉じた。

 なお、戦後男女共学へ移行して、昭和25年(1950)に都立南多摩高校と改称し、現在に至っている。 

 郷里に帰った楳子は、八王子地方の女子教育の遅れを憂い、裁縫その他の学科を授ける女子学校の必要性を痛感し、明治21年(1888)、八王子町の篤志家に呼び掛けて横山町に教授所を開設、10人あまりの女子の教育をスタートさせた。

 その4年後の明治25年(1892)、上野町4番地(現天神町)の借地250坪に、宿願の私立八王子女学校及び幼稚園を設立し、以後同校は多くの人材を世に送り出し、女性教育の先駆けとなった。

100年前の授業は?

 明治25年(1892)11月開校時の八王子女学校設立趣意書に「本校ハ優良ニシテ有用ナル婦女タルニ須要ナル学科ヲ授クル所トスル」とあり、入学資格は尋常小学校卒業の者、もしくはこれに相当の学力を有する者としている。

本科は1学年から4学年までで、年間を通じて、入学・退学は随意であった。

開校当時から明治28年 (1895)までの入学者は53名、同年には初めての卒業生を2名出し(中途退学者あり)、29年の在校生29名、卒業生4名。 

 32年は入学者30名、在校生67名。36年には86名の在校生を数え、生徒数は順次増加したが、 明治37年(1904)に日露戦争が勃発し、「下女に暇を出し、女児の学校通いをやめて台所の手伝いをさせる」 (明治40年の新聞) などで生徒数は減少に転じたようである。

 授業は4月1日に始まり翌年3月31日で終わり、学年は10月15日までの前期と3月31日までの後期の2期。授業時間は季節に応じて細かく4回に分けられていて、夏休みの規定はない。 

 ただし7月1日から8月31日までは午前7時から正午までとしている。教育内容は明治27年(1894)ころの「教科課程表」によると、修身は各学年とも必須、それ以外は希望選択、1週間の授業時間は30時間(50分授業で10分休憩)と規定されている。

 本科第4年の科目内容を見ると、修身3、読書・国語5、作文2、習字2、数学3、地理・歴史3、裁縫9、手工(編み物)1、唱歌1、遊戯(体育)1の通計30時間となっている。

筆跡

 

 その後明治32年(1899)改正の「教科課程表」では、良妻賢母育成の教育理念から裁縫が週12時間にも増加し、数学も実用的な筆算分数、比例、珠算などが課せられている。

明治39年(1906)「週案」で、教科内容の一部をみると、本科4年の西洋史では「えじぷと」、日本外史「源氏後記・北条氏」、西洋史「ふぇにきや・へぶらい」、家庭婦人育成の新しい科目「生理衛生を学ぶ目的」、そのほか国語「読本七巻」、文法、作文や植物学なども学んでいる。

 100年以上を経た現在から見ても、当時の女学生たちが実に変化に富み、多岐にわたる学習をしていることに驚かされる。

【横川楳子先生(右)と生徒】

苦難の運営─第四高女誕生へ

 横川楳子女史(写真左は本人筆跡)は明治25年(1892)11月、当時はおろそかにされていた女子教育の向上と充実を理念に、八王子町では初めて女子・幼児を対象にした教育機関「私立八王子女学校」を創設した。

 

 しかし明治41年(1908)3月、第13回卒業生を送り出した後、同年5月開校の府立第四高等女学校に、在校生、施設など全てを移管するまでの15年余り、その経営状態は常に苦境に立たされていた。毎年収入を上まわる生徒たちへの教育投資が行われ続けた結果であった。

 

 赤字には私財を投入し、篤志家の寄付を仰ぎ、必死の努力を続けながらの女学校経営であったが、明治27・28年(1894〜95)の日清戦争、明治30年(1897)の八王子町大火をきっかけに生徒数が激減し、篤志家からの寄付金も不景気のため減少、経営状態はより悪化した。さらに明治37年(1904)、日露戦争の勃発により退学・休学者が続出し、学校の存続そのものが危ぶまれる窮地に陥ったのである。

 

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 明治32年(1899)に高等女学校令が公布され、東京府は府立第一高等女学校(現都立白鴎高校)、府立第二高等女学校(現都立竹早高校)、府立第三高等女学校(現駒場高校)と順次開校していった。そこで明治39年(1906)八王子町議会は第四高等女学校を誘致すべく、在校生60数名を抱え、大きな成果をみている私立八王子女学校が閉校の悲運にある旨と、女子教育の必要性を東京府へ訴え、校地6,000坪(現在の校地)の寄付を申請、楳子女史も校舎・施設など一切の寄付を申し出て受理された。

 

 100年前の明治41年(1908) 5月1日、ここに東京都立南多摩高等学校の前身・東京府立第四高等女学校が誕生したのである。

 

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 こうして生徒・施設などすべてを第四高女に移管した楳子女史は、永年の女子教育に貢献した功績により、同年、東京府知事及び八王子町長より感謝状を贈られている。女学校閉校後、楳子女史は学校教育に従事することはなかったが、大正年間、八王子婦人会が結成されると会長に就任し、今度は既婚婦人の教育活動を行っていく。

 生涯を独身で通し、女子の教育に情熱と精魂を傾け続けた楳子女史は、大正15年(1926)1月3日、南多摩郡横川村横川家で73年の生涯を閉じた。現在も同地(現八王子市横川町)に、女史の長兄のご子孫が健在で、横川家と楳子関係の多数の資料を守っている。

 

【現在の横川家】

*この記事は広報紙「南高100周年」にシリーズ連載したものである。(資料:八王子市立郷土資料館発行・明治時代の八王子)

(資料:八王子市立郷土資料館発行「明治時代の八王子の教育と横川楳子」「明治時代の八王子、「八王子市議会史・年表編」、「東京教育史資料体系・第8巻」・明治時代の八王子)